多様性のある社会って、マイノリティに社会進出を強要する社会なのでは?
会社で発生した問題の事後処理で気づいたことの2つ目です。
前回はこちら。
言い訳じみていますが、今回発生した問題について、その発生自体には関わってません。ほぼ部外者だったのですが、事後対応に参画しています。そして、その問題を発生した張本人ですが、いわゆる「境界領域」ではないかと私が考えている人です。ここではAさんとします。Aさん本人に確認はできていないのですが、言動がコロコロと変わりやすく、ミスが多いことがそのの理由です。
話が飛びますが、最近「社会の多様性」という言葉があちこちで聞かれます。ジャーナリストの佐々木俊尚さんが、多様性に下記Tweetをされており、「なるほどなぁ」と感じました。
多様性とは、自分にとっては不快で嫌いなものであっても許容すること。 https://t.co/a11OibYx4i
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2019年2月4日
一方で、これはどちらかというマジョリティから見た視点だと私は考えています。
では、マイノリティから見た視点はどうなるのか? それは、
多様性とは、マイノリティに社会進出を強要すること。
ではないかと考えてます。
話を戻すと、境界領域にいるであろうAさんは社会のマイノリティです。昔から、知的障害や境界領域の人たちはいたはずです。しかし、それは限られたコミュニティ (家や施設) に押し込まれて、隠されてきました。その存在が公知のものとなったのは、ここ10年ぐらいの話です。それと同時に、これらのマイノリティは社会に認められると同時に、社会で過ごすことを要求されるようになった、というのが私の実感です。これまでは、どこかに籠っているだけだったのが、囲いを強制的に取り払われ、社会の荒波に強制的に揉まれるようになったと考えています。
所謂、性的マイノリティ LGBT 同様だと思います。その存在が公になるのは、良い方向だと思います。一方で、マイノリティの人の中でも、そっとしておいてほしい、ほっといてほしいという人も少なくないはずです。現在の多様性は、そういう人たちに、強制的にスポットライトが浴びせられる社会な気がしています。
マジョリティでもマイノリティでも、その人が望むコミュニティで落ちついて過ごせる程度には社会の柔軟性を持たせたい、と考えている今日この頃です。