2024 ペルー旅行記②: マチュピチュ

前回の日本~マチュピチュ村への移動はこちら。

aikawaojisan.hatenablog.com

今回はDAY3, 4の話です。

いよいよマチュピチュです。マチュピチュへはバスで移動します。マチュピチュの開場が6:00で、マチュピチュ村のバスは5:30頃から動いてます。バスの待っている間に、ガイドの売り込みが来たので、参加してみることに。これは正解でした。

 マチュピチュの入場ゲートが開くのを待つ列。

マチュピチュは周るルートが複数あり、厳正に管理 (戻ったり、外れたりすると笛で警告される) されており、この日はCircuit2を選択していました。

※2024/7時点では、Circuit種類が変わっているようです。

Circuits and routes – Machupicchu

 

ガイドに連れられて、高台に到着すると・・・。最高!!

ただただ、「すげー、すげー」と言いながら、シャッターを押してました。下手な写真を撮る方が難しいです。ガイドさんのおかげで、絶景スポットを先回りできたようで、人が集まる前に映える写真を多く残すことができました。

マチュピチュは15世紀のインカ帝国時代の遺跡です。日本では室町時代に建てられました。インカ帝国は1533年スペイン人により征服された後、その存在はすっかりと忘れ去られました。世界的に知られるようになったのは、1911年にアメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世の調査によってでした。インカ帝国アンデス文明は、(諸説あるものの) 文字を持たなかったため、マチュピチュが建てられた背景や目的は謎のままです。

マチュピチュを訪れて、相当な強制力と高度な文明があったと感じました。前者の強制力は、やはり山の中に建てた目的です。マチュピチュ村も相当な山奥ですが、マチュピチュ遺跡は更にそこから山を登ったところにあります。合理的に考えれば、そこに住もうとは到底考えられません。宗教や占い、争闘からの逃避など、何らかの強制力がなければ、ここにマチュピチュが建つことはなかったでしょう。また、彼らは文字を持たないにもかかわらず、これだけの遺跡を作る能力がありました。建設・治水・農耕技術の伝達は?、誰がどこに住んでいるかの管理は?などなど、文字を持たずしても、何らかの方法でその情報を残していたのでしょう・・・。その文明は、文字があることが当たり前の我々からすると、想像できない、別軸の高度な文明だったのでしょう。

 

ガイドツアーが終わった後は個人的にブラブラし、その後はマチュピチュを下ります。行きはバスでしたが、帰りは歩きにしました。ノンビリと歩いたところ、マチュピチュ村まで1.5時間ほどかかりました。行きはもちろんですが、帰りも体力と時間に余裕のある人以外は、徒歩移動は避けるべきです。

帰り道で撮ったマチュピチュ村。こう見ると、日本の温泉街に見えてきます (マチュピチュ村は温泉が出ます)。

ホテルに戻り、シャワーでさっぱりした後、村の散策+ランチに出かけます。マチュピチュ村は観光地化されてます。

結構立派なサッカーグラウンドもあり、子供たちも多かったです。この点は日本とかなり違います。

食べたランチ。サラダは付いたものの、前日と似た感じです。

ホテルに戻ったら、疲れがドッときて睡眠。夜になっても、外に出る元気がなく、疲労回復を優先させました。

 

マチュピチュ観光は2日間に分けました。理由は、山の天気なので、急変のリスクがあることと、マチュピチュの中の散策と、マチュピチュを眺めるワイナピチュを別日に設定したかったためです。幸運なことに両日とも天候に恵まれましたが、この判断は正しかったと考えています。

2日目も朝6時の開場に合わせ、マチュピチュに向かいます。ワイナピチュへは、マチュピチュ内にあるゲートを通る必要があり、その会場が7時からなので、1時間はマチュピチュ内を散策します。

この日はいくつかの動物に出合えました。

リャマ

ウサギ

ワイナピチュへのゲートが開場したら、いよいよ山登り開始です。色々な人がブログなどで書かれていましたが、かなりの急こう配を昇ります。手すりがあるので、そこまで危険ではありませんが、体力には自信がないとツラいです。

ただ、頂上にたどり着けば、素晴らしい眺望を得ることができます。ちなみに、左のつづら折りが、マチュピチュ村からマチュピチュへのバスルートです。

この日はマチュピチュ村から離れる日だったので、眺望を眺めるのはそこそこに、下山しました。次回はナスカに移動します。